私は不安になっていた。町も人も家も車さえ尽き、畑と山があるばかり。埼玉県鳩山町って、東京に通勤する人もいるぐらいで、大自然というわけでもないんだけど……。
ログハウス風の一軒家に「そのつもり」と鉄製の看板。本当にあった……と少し安堵(あんど)して、でもまだどきどきしながら、扉を開ける。あたたかな木の空間が広がって、どきどきはやすらぎに替わり、そしてパンを見て、今度はわくわくしてきた。まるぱん、コッペパン、バゲット……オーソドックスなアイテムがごくごくオーソドックスな形で、いや、いくぶんかぷっくりころころとしていて愛らしい。まるで絵本に出てくるパンのように。
味はどうだろう。たとえば、クロワッサン生地でできたシナモンロール。噛(か)んだ一瞬ぎゅっとすると、ただちにばりっと割れ、破格の砕けっぷり。表面の香ばしさは小麦の明るい甘さへ移り行き、黒糖のアイシングと響きあい、濃いめのシナモンをまろやかにする。
なにもないところで出会った、とんでもないパン。作っているのは、朝妻京子(あさつま・きょうこ)さん、裕司(ゆうじ)さんの夫妻。なぜ、この山と畑しかない場所にパン屋を開いたのか。京子さんは数々の名店で修業したパン職人、裕司さんは有機農業を志す農業者だった。職種はちがえど、ナチュラルでおいしいものを作りたいという思いは変わらず。農家とパン屋の両方を営むため鳩山町に移住。次第にパン屋が忙しくなり、裕司さんもパンを作るようになった。はじめは住宅地の近くで開業も、このなにもない場所に移転。
「自然のある中でお店をやりたいと思っていました。ここは景色がよかったので決めました」と京子さん。
完全なる自然の中でパンを食べられる場所がある。敷地の一角、枝に渡された棒から垂れ下がった白い布一枚が、「外カフェ」の入り口。くぐると、ただの山の斜面に、テーブルが二つと椅子数脚。そこに運んできてくれたパンとドリンクをいただく。風に吹かれ、畑を眺めながら。おいしい……これは、ピクニックのときすごくおいしく感じるのと同じではないか。カフェをするのに、おしゃれな建物もインテリアも必要ない……コペルニクス的転回である。
自然なもの、周辺の土地で生まれてくるものの持ち味を真摯(しんし)に生かし、まるで栽培するように作ったパン。先述のクロワッサン生地やカンパーニュには、近隣の小川町で無農薬で作物を育てる「横田農場」「河村農場」などから小麦を取り寄せ、自家製粉。歯切れのよさや、目覚ましい香ばしさにそれはつながっている。また、市販のパン酵母(イースト)は使用せず、レーズン種やヨーグルト、ライサワー種を醸し、この土地の菌も味方につけている。
「(発酵種は)味がちょっとしたことで変化するので、作っててもおもしろいですね。体にもいい、顔が見える生産者やオーガニックのもので作っているので、安心して食べられますし」(京子さん)
ドライフルーツやナッツは有機のもの、野菜も近隣農家の無農薬のものが選ばれる。「ハムレタスチーズサンド」はたっぷりのレタスがみずみずしい。群馬の東毛酪農が低温殺菌で作ったチーズは、やさしい中に余韻が力強い。ペッパーシンケンも含めて、それら冷たい触感のものを、あたたかさを感じさせる黒糖入りのまるぱんが包んで、とてもいいバランスだ。
同じまるぱんで作る「あんバター」は、十勝・折笠農場の有機小豆を黒糖ときび糖で炊いたあんこをはさむ。味わい深い小豆のコクを黒糖で引き出しつつ、小麦と発酵種が織りなす息の長い余韻がこってりとした味を飽きずに食べさせてくれる。
ポテトサンドは、「農家さんがパンを買いに来たとき買わせていただいています」というじゃがいもを、自家製のマヨネーズで和(あ)え、自家製粉した全粒粉入りの食パンで包む。ポテサラもパンも味が濃いのに、喉(のど)の通りがよく、体にすっと入る。そのつもりのカンパーニュやバゲットにも通底するものだ。
「おかずと合わせて食べたとき、ひっかからないで食べられる。ごはんみたいにずっと食べつづけられて、後口もやさしい。そんなパンを作りたくて」(京子さん)
自然に返り、感覚を研ぎ澄ませば、そこにおいしさがある。なにもないカフェと同じ教訓をパンもささやくのだった。
そのつもり
埼玉県鳩山町高野倉435-1
049-296-5760
11:00~17:00
月・火・水・木曜休(春以降は月・火・水曜休)
フォトギャラリーへ(写真をクリックすると、くわしくご覧いただけます)
「このパンがすごい!」紹介店舗マップ(店舗情報は記事公開時のものです)
地元素材から“栽培”したパンを自然の中で味わう/そのつもり - 朝日新聞デジタル
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