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Monday, January 22, 2024

「自然資本」への対応には日本の伝統文化が重要だ - au Webポータル

秩父神社の「御神体」でもある武甲山(写真:G-item/PIXTA)

近年、徐々に関心が高まっている「自然資本」や「生物多様性・生態系」。経済界も「脱炭素」に続くテーマとして注目し始めている。この背景には何があるのか。『科学と資本主義の未来──〈せめぎ合いの時代〉を超えて』の著者で、一貫して「定常型社会=持続可能な福祉社会」を提唱してきた広井良典氏が解説する。今回は、全2回の後編をお届けする(前編はこちら)。

「自然資本」への具体的対応

近年大いに関心が高まっている「自然資本」というテーマについて、前回はそうした話題を考えていく際の基本的視点について述べた。

今回はより具体的なレベルで「自然資本」や生態系保全への対応について考えるとともに、このテーマを深めるにあたって実はきわめて重要になる、「鎮守の森」などの日本の伝統文化や自然観について述べてみたい。

たとえば次のような議論がある。すなわち、「日本は国土の約7割が森林で、“森林大国”と呼ばれるにもかかわらず、木材の自給率は40%程度と低い(2022年で40.7%〔林野庁データ〕)。これは外国からの安い木材輸入に頼っているからであり、したがって多少価格は高くとも、国内材をできるだけ買うようにすべきであり、それによって木材の国内循環も促進されることになる」といった内容の議論である。

「安い」ものを買えばよいというのは他でもなく「市場経済」の論理だが、市場経済はボーダーレスであり、そこには国境つまり国内産か海外産かという区別はない。

だから市場経済の論理からは“安い木材輸入に頼る”のは当然である。私たちはこうしたテーマを、特に「自然資本」や生態系保全との関わりにおいてどのように考えたらよいのだろうか。

このような話題に関して、本稿の冒頭でふれた、昨年(2023年)3月に策定された「生物多様性国家戦略2023-2030」の中に次のような文章がある。

「近年我が国では本格的な少子高齢化・人口減少社会を迎えており、特に地方においては農林業者の減少等により里地里山の管理の担い手が不足し資源が十分に活用されないことが、国内の生物多様性の損失の要因の一つになっている。同時に、海外の資源に依存することで海外の生物多様性の損失にも影響を与えている。すなわち、本来活かすべき身近な自然資本を劣化させながら、その変化を感じ取りづらい遠く離れた地の自然資本をも劣化させている」(強調引用者)

これは森林や生態系保全に関する日本の現状をストレートに批判する内容であり、政府の文書としてはかなり率直な表現と言えるだろう。つまり日本は豊富な森林をもちながら、それを十分活用せず、海外の安価な木材に依存し、結果として国内・海外いずれの「森林=自然資本」を劣化させているという指摘である。

論点をいくつか整理すると、現在の日本においては人口減少、それに加えて一極集中ないし都市集中が進んでいる結果、自然資本のいわゆる「アンダーユース(未利用あるいは過小利用)」の問題が生じている。

これは日本において「自然資本」や生態系保全のテーマを考える場合のきわめて重要なポイントと言える。つまり一般的には「自然資本」あるいは生態系保全というと、森林の過剰伐採など「オーバーユース」の問題が念頭に置かれるわけだが、日本の場合は上記のように人口減少等の要因から、それとは逆の問題が発生しているのだ。

政府や公的部門の対応が必要

ではどのような対応がなされるべきか。

まず単純に言えば、先ほどもふれた“多少高くても国内産の木材を消費者が買うようにする”という方向が考えられる。

しかし現実問題として、消費者に上記のような行動を期待することには限界がある。そうすると、(市場経済のみでの解決は困難ということで、)政府ないし公的部門の対応が必要ということになり、さまざまな公共政策(各種の補助金や従事者の所得保障など)が重要な意味をもつことになる。

実際、ヨーロッパ諸国は「持続可能な森林経営の強化」「持続可能な森林バイオエコノミーの推進」といった視点に立ち、特に環境保全の観点からのさまざまな支援策を展開している(「EU森林戦略2030」)。

以上は「市場(私)」または「政府(公)」による対応ということになるが、これらに加えて、「コミュニティ」あるいは先ほど言及した「コミュニティ経済」という発想からの対応が考えられるのではないか。

それは“多少価格が高いとしても、国産材を使えばそれによって林業や関連事業に携わる従事者の収入や雇用増にもつながり、めぐりめぐって地域全体の賃金上昇や経済活性化につながる”という考え方である。

言い換えれば、「価格の高い国産材を買うこと」はさしあたってはマイナス(損)だが、域内の経済循環を通じて、最終的には当人にとってもプラスの恩恵が戻ってくるという発想である。

そのように考えられるか否かは、まさに上記の「めぐりめぐって……」という発想をもてるかどうかにかかっているだろう。「めぐりめぐって……」という日本語は、すなわち「循環」ということであり、「コミュニティ」とも重なる。つまり相互扶助あるいは“ペイ・フォワード”の循環であり、いわゆる「情けは人のためならず」の発想でもある。対照的に、「市場経済」の本質は“無限に開かれた空間”ということであり、そこでは「循環」は本来的な意味をもたない。

循環の思想が失われている

議論を飛躍させるようだが、日本経済が低迷していることの根本的な背景として、この「めぐりめぐって……」という、循環の思想が失われていることがあるのではないか。そこでは全てが短期的な視点で把握されて“コスト・カット”が進み、結果として負のスパイラルが生じている。

「循環経済(サーキュラーエコノミー)」ということがしばしば語られるが、本来それは単にリサイクルとか資源循環を意味するのではない。そこにはここで述べているような「コミュニティ」の思想が含まれているのであり、プラスの経済循環をつくり出していくという、ポジティブな方向性が含意されているのだ。

このように考えていくと、先ほど見たように現在の日本において「自然資本」のアンダーユース(資源の未利用ないし過小利用)が生じ、それが国内そして海外の生態系の劣化をもたらしているという点は、実は大きな“チャンス”ととらえられるのではないか。

つまり国内のさまざまな「自然資本」を(多少価格が上昇することがあるとしても)積極的に活用し、それを経済循環の中に組み込んでいくことができれば、それは多様な形の付加価値を生み、経済全体にとってもプラスに働くのである。これは前回記事の「市場経済・コミュニティ・自然をめぐる構造」と題した図にそくして述べた、“市場経済をその土台にある「コミュニティ」や「自然」にうまくつなぎ、それらと調和する経済社会システムを作っていく”という方向と重なっている。

そして「ネイチャーポジティブ」とはまさにそうしたことを指すだろう。具体的には、先ほど例として挙げたような、森林の活用を通じた国内材の使用や関連事業の展開もあれば、自然との関わりを心身の癒やしやツーリズムに活用していくことなど、無数の姿が考えられる。

加えて、「自然資本」が豊富に存在するのは地方圏なので、その積極的活用という方向は、一極集中の是正や「地方分散型」社会の実現にも寄与するだろう。

「自然資本」の活用を通じたプラスの経済循環や分散型社会の実現という発想がいま求められているのである。

自然資本と「鎮守の森」

最後に、「自然資本」や生態系というテーマに関して、ここ10年来ささやかながら私自身が進めてきたプロジェクトについて記させていただきたい。それは「鎮守の森コミュニティ・プロジェクト」というものである。

最初に知った時驚いたのだが、日本には神社、お寺がそれぞれ約8万ずつ存在する。中学校の数は約1万なので、平均すれば中学校区ごとに神社、お寺が8つずつ存在することになる。あれほど多いと思えるコンビニの数は6万弱なので(2023年)、それよりも多い数である。

ちなみに神社は明治の始めには約18万存在しており、これは大きく言えば当時の日本における自然村あるいは“地域コミュニティ”の数に対応していたと見ることもできる。つまり地域コミュニティの中心に神社が存在していたのであり、神社は「自然信仰」と一体となったローカルなコミュニティの拠点だったと言える。

「自然資本」や生態系との関連で、私が「鎮守の森」に注目するのは、こうしたローカル・コミュニティとの関わりに加えて、その「自然観」に関してだ。

神社の場合、鳥居や社殿といった存在も重要だが、その本質は上記の「自然信仰」にあり、つまり岩や木、あるいは山といった「自然そのもの」が“神様”なのである。実際、たとえば後でも述べる秩父神社(埼玉県秩父市)の場合、“御神体”は武甲山という山である。

そしてこうした自然信仰を象徴的に示しているのが「八百万の神様」という言葉だろう。英語に訳せば“Eight Million Spirits in Nature”といった表現になるだろうが、実質的にはそれは自然そのものが内発的な力を有しているという自然観である。

西欧近代の視点からはこうした自然観は「アニミズム」と呼ばれて、いわば“未開”の原初的な自然観のようにとらえられてきたわけだが、現代においてはさまざまな環境問題等が生じる中で、近代科学の「機械論的自然観」――自然は単なる機械に過ぎず、人間はそれをいくらでも支配あるいは搾取することができるとする自然観――にむしろ疑問が呈せられるようになり、こうした文脈でアニミズム的な自然観の意味が再評価されるに至っている。

さらに、たとえば散逸構造と呼ばれる理論でノーベル化学賞を受賞したベルギーの科学者イリヤ・プリゴジン(1917-2003)が提起するような「自己組織性」の考え方――自然は単なる受動的存在ではなく、自らが秩序を生み出していく内発的な力をもっているとする見方――が広がり、いわば「新しいアニミズム」と呼ぶべき自然観が現代科学の中で生成しているのである(こうした話題については拙著『科学と資本主義の未来』参照)。

生物多様性と「八百万の神様」

さてこうした「鎮守の森」について、本稿の中で幾度か言及してきた昨年(2023年)3月策定の「生物多様性国家戦略2023-2030」において、次のような文章が盛り込まれた。

「鎮守の森、八百万の神に象徴されるような……我が国における人と自然との共生の考え方や、生物多様性の豊かさに根差した地域文化(伝統行事、食文化、地場産業など)を守り」「自然がもたらす文化的・精神的な豊かさや、……人と自然の共生という自然観の継承を、さまざまな機会を通じて発信し、……地域における生物多様性の保全活動を促進する」(強調引用者)

私自身も本戦略の検討過程の中で、「鎮守の森」に象徴される伝統的な自然観の現代的意義について発言してきたのだが、「鎮守の森」や「八百万の神」という言葉が政府の公式文書に盛り込まれたのは、私の知る限り初めてではないかと思われる。

「八百万の神」という言葉は、象徴的な意味で自然の中に無数の“神様”が存在しているという自然観だが、そこでは自然が私たち人間にとって大切な、ともに共生していくべき(あるいは「畏敬」すべき)存在であることが含意されている。だとすれば「生物多様性」や生態系の保全が重要だという考え方は、こうした自然観と実質的につながるのではないか。

言い換えれば、「生物多様性」という概念は、それ自体は生物学的あるいは自然科学的な知見をベースに生まれたものだが、私たちがその意義を実感し、それに関する保全活動や実践を行っていく際には、「八百万の神」「鎮守の森」といった、日本における伝統文化や自然観に引き寄せながら解釈していくことも重要となるだろう。

いま「文化」という点にふれたが、これは国連のいわゆるSDGs(持続可能な開発目標)をどう考えるかにも関わってくる。

ある意味で意外なことだが、巷でよく見かけるカラフルなSDGsの17項目には「文化」という項目は含まれていない。その理由は、SDGsの各項目はいわば是正されるべき「問題」や「課題」を列挙したものであり――貧困とか飢餓、ジェンダー平等といった具合に――、これに対して「文化」はそれ自体としてポジティブなものなので、17項目の中に入っていないということのようだ。

しかし私は、先ほど生物多様性と“八百万の神様”に関して述べたように、文化という要素は環境保全などの課題や活動に取り組むにあたって、その「モチベーション」としても非常に重要なものではないかと思う。「SDGsと文化」はむしろ不可分であり、この点も、私が先述の「鎮守の森コミュニティ・プロジェクト」を進めている背景の一つである。

「鎮守の森コミュニティ・プロジェクト」の展開

さて「鎮守の森コミュニティ・プロジェクト」の内容について簡潔に記すと、それはここまで述べてきたような「鎮守の森」を、 自然エネルギーの分散的整備や地域再生、心身の癒やしなどの現代的な課題と結びつけ、その新たな意義を再発見していこうとするものだ。具体的にはそれは、

①鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想
②鎮守の森セラピー
③鎮守の森ホスピス
④祭り・伝統文化と地域再生・活性化

という柱からなっている(これらの詳細は私が主宰している「鎮守の森コミュニティ研究所」のホームページ鎮守の森コミュニティ研究所を参照いただければ幸いである)。 

こうした試みはなお試行錯誤の状況だが、ここでは①の鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想について、最近の動きの一例を紹介させていただきたい。

秩父市での取り組み

埼玉県秩父市での展開で、秩父は秩父神社の夜祭がユネスコの世界無形文化遺産に登録されたことにも示されるように、「鎮守の森」的伝統の豊かな地域である。こうした場所において、地元の有志の方々と、私たちのプロジェクト・グループである鎮守の森コミュニティ推進協議会(代表理事:宮下佳廣氏)のメンバーが共同出資して「陽野(ひの)ふるさと電力」という会社を設立して事業を進め、2021年5月に50キロワット(約100世帯の電力を供給する規模)の小水力発電設備の導入に至った。

幸いこの活動は、令和4年(2022年)緑化推進運動功労者・内閣総理大臣賞を受賞することにもなった。さらにこうした活動を発展させ、小水力発電の売電収入を活用して近隣の武甲山の環境整備を行うという構想もある。

先述のように武甲山は秩父神社の“御神体”なのだが、戦後一貫して石灰岩の採掘がなされて山容が大きく損なわれており、地元の高校生などからも「武甲山がかわいそうだ」といった声が上がっていた。地域の人々が協力してエネルギーの地産地消に取り組み、それを通じて地域のシンボルあるいは心のよりどころである「鎮守の森」の保全を行うというのは意義深いことと思われる。

これは先ほどの「SDGsと文化」という話題ともつながり、このように伝統文化や地域への愛着という点は、「自然資本」や生態系保全にとっての重要な「モチベーション」となるのだ。

「鎮守の森」について言えば、こうした「八百万の神様」的な自然観が(かろうじてとは言え)保存されているのは世界的に見ても貴重なことだろう。ジブリ映画が国際的な支持を得ていることに照らしても、また先述のように機械論的ではない自然観が現代的な重要性をもつに至っていることからも、生態系保全や生物多様性の文脈で、そうした日本における伝統的な自然観を世界に向けて発信していくという発想は大切と思われる。

なお、以上は鎮守の森コミュニティ・プロジェクトの柱のうち①の鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想に関してだが、②の鎮守の森セラピーに関しては、現在長崎県の壱岐市において関連のプロジェクトを進めている(鎮守の森コミュニティ研究所ホームページ参照)。

「30by30」と呼ばれる目標

ここまで自然観などの関連で「鎮守の森」について述べたが、最後にふれておきたいのは、こうした鎮守の森は生物多様性に関する「30by30」と呼ばれる目標ともつながるという点だ。

「30by30」目標とは、生物多様性の損失を食い止め回復させるというゴールに向け、2030年までに陸と海のそれぞれ30%以上を健全な生態系として効果的に保全しようとする目標であり、2022年12月に採択された「昆明・モントリオール生物多様性枠組」にも位置づけられている。

この場合、まずその対象となるのは国立公園など公的に管理された保護地域だが、それだけでは足りないため、「OECM(Other Effective area-based Conservation Measures)」という考えが提案された。これは上記のような公的な保護地域以外での、民間を主体とした保全地域のことだが、日本の場合、企業などが保有する森林などに加えて、まさに「鎮守の森」つまり社寺の森や関連の自然が重要な意味をもっている。こうした流れの中で、環境省によって「自然共生サイト」という地域認定が2023年度から進められているが、このような面でも「鎮守の森」は現代的な意義を有している。

こうした伝統文化や自然観を再発見し、その国際的な意義も考慮しながら、「自然資本」や「ネイチャーポジティブ」に関する対応を進めていくことがいま日本において求められているのである。

なお、ここで述べてきた内容は、本サイト(東洋経済オンライン)掲載の記事で論じた「生命関連産業(生命経済)」や「ポスト・デジタル」「情報から生命へ」という話題ともつながっており、ご参照いただければ幸いである。

(広井 良典 : 京都大学人と社会の未来研究院教授)

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