白神山地が世界自然遺産になった原点は、1970年代終盤に計画され、一部着工された「青秋林道」への反対運動にある。青森県側で運動を主導した紀行作家の根深誠さんに、白神山地と今後、どう向き合うべきか聞いた。
――白神山地と関わるようになったきっかけは?
弘前高校時代に登山を始め、岩木山に登った時、西の方に山が続いているのが見えた。いまの白神山地だよ。当時は「白神山地」という呼び名はなく、みんな「目屋の山」と呼んでいたな。手当たり次第に登ったよ。
そして1970年代の終わりごろに、山仲間から「あそこに林道を造る計画がある。反対運動をしないか」と誘われた。
――林道計画は81年に承認され、翌82年には着工されました。
反対の要望書を県議会に持っていくことになった。「白神山地の自然を守る会」を立ち上げたが、その過程で保全するエリアを、「目屋の山」ではなく「白神山地」という名前にし、現在では世界遺産地域になっているのとほぼ同じ広さに設定した。
その後、日本野鳥の会や山岳連盟とも連携し、「青秋林道に反対する連絡協議会」も結成した。林道計画は中止になり、反対運動はその後の自然保護運動の「見本」になるぐらいで、100点満点だった。
――林野庁が90年に白神山地を森林生態系保護地域にしました。
連絡協議会の解散会が弘前で開かれたが、そこで「白神山地を世界遺産に推薦する」と発表されたんだ。あれは、白神を守り抜いたわれわれへの「ご褒美」だったんだね。ところが、「世界遺産」という言葉が出た途端に、「保護だ。立ち入り禁止だ」と言われ出した。
白神の自然と文化を守ろうと反対運動に取り組んだが、自分たちが描いていた未来とは異なり、「世界遺産」という名前だけが独り歩きしている。自由に立ち入れないような地域をつくってしまったことに、責任を感じているよ。
――白神山地周辺では縄文時代から人が生活しており、遺跡もあちこちで見つかっています。
例えば、現在は世界遺産地域内の核心地域と言われる場所でも、江戸時代には杣(そま)道があり、紀行家の菅江真澄の日記には、暗門の滝の上流で伐採が行われていた、という記述があるほどだ。実際に暗門の滝の上流の方では、ブナ林も二次林になっている。
――マタギたちが代々伝えてきた山の文化もありますね。
白神は古来、人と自然の交わりがあった場所だ。そういった文化的な側面をそぎ落として、「太古から手つかずの自然だ」なんて、誰が言い出したんだろう。この「手つかず」といった間違った認識が、入山規制につながったと思う。
――この現状をどうすればいいのでしょうか。
森や木、そこに暮らす生物は守られても、古代から一緒にあった人間の営み、つまり、文化が葬り去られてしまっては、われわれが守ろうとした白神ではなくなっているということだ。
私はいま、白神を「自然遺産」ではなく、自然と文化の両方にかかる「複合遺産」にした方がいいと考えている。世界遺産の対象エリアも日本海沿岸まで広げ、山から海まで、人との交わりの中で保たれてきた貴重な自然を未来にわたりつないでいく。
白神山地の保全に関わった最初の世代が、いまこそ、声を上げなくてはいけないんじゃないかな。(聞き手・鵜沼照都)
◇
ねぶか・まこと 1947年、青森県弘前市出身。弘前高校時代に登山を始め、明治大学の山岳部では、世界的な冒険家の故・植村直己さんの指導も受けた。1995年、「遥(はる)かなるチベット」でJTB紀行文学大賞受賞。渓流釣りや山の文化にも詳しく「みちのく渓流釣り」「白神山地をゆく」など著書多数。
白神山地、自然と文化の「複合遺産」に 紀行作家の根深誠さん:朝日新聞デジタル - 朝日新聞デジタル
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